コラム

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前田悠也

第39回:軽々しく「イップス」と言ってはならない理由

野球の動作は再現性が重要です。投球フォームや打撃フォームなど、同じ動作を安定して繰り返すことが結果につながります。しかしそのときの肉体的、精神的な状態によって、選手は以前と同じ動きをしているつもりでも、映像で確認すると好調時とは異なる身体の使い方をしていたり、今まで問題なくこなせていた動作が突然できなくなったりすることがあります。自身が脳裏で思い描いた動き方と、実際の動作の隔たりを少なくすることが、好調を維持する秘訣と言えます。

しかし実戦を多くこなす中で、選手はときに、トラウマになるようなプレーを経験します。投手が相手打者の頭部に死球を当てたり、野手が送球する際に暴投したりすると、ときにはその記憶が強烈に脳に焼き付き、それがきっかけでそれまでできていた動作が突如としてできなくなってしまうことがあります。そのように、これまで無意識にできていた動作が心理的要因からできなくなることを「イップス」と呼びます。具体的には、投球でストライクが入らなくなる、腕が途中で止まってしまいボールが投げられなくなる、送球の際にボールを地面に叩きつけてしまうなど、その症状はさまざまです。

イップスの根本的な治療方法はありません。一般的には常に完璧を求める生真面目な性格の選手が陥りやすいと言われているため、少しずつ成功体験を積み重ねて、根気強く元の動作を取り戻していくほかありません。その過程で、「自分はイップスになってしまった」、「イップスが治らなかったらどうしよう」と不安を抱えているうちに身体の特定の部位に意識が集中して、さらに動きが硬直する悪循環に陥る場合があるため、特に自身がイップスを患った経験のある外国人選手は、軽々しくその言葉を口にしません。イップスは英語で“yips”ですが、その場で口にするのが憚られる場合は、“the thing”(アレ)や、“the Y-word”(Yから始まるあの言葉)という風に言い換え、周囲にイップスで苦しむ選手がいる場合は特に配慮をしています。日本人選手の間には「イップス」という言葉の使用に対する憚りはあまり感じられませんが、その言葉を英語に訳す場合は、私たち通訳も細心の注意を払っています。

前田悠也

前田悠也

東京都出身。中学から米国に留学。現在、巨人軍英語通訳

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